敬覚寺本堂 建立の由来

 敬覚寺本堂が建立されたのが大正八年、宮大工 長谷川熊平氏によるものである。
 長谷川熊平は、明治五年 鳥越村 長谷川儀平治の長男として生まれ家業は代々宮大工であった。熊平は、二十才にして既に棟梁の資格を備えた。その後、南蒲原郡月岡村(現在の三条月岡)浄照寺本堂建立中、住職の権大僧都 土屋法潤の世話で名古屋の伊藤平左衛門(当時帝室技芸員)の門下生となり克苦研鑚師匠の認むるところとなり、秘蔵の図書絵画等の筆写の許可を得る等、越後の長谷川か越中の櫛田かと言われるまでに修行が進み、東京の築地本願寺別院の建立にその指揮監督をまかされ完全竣工した。
 その後、修行五年にして帰郷、東本願寺三条別院初め長岡の金峯神社(当時県社)善行寺、光福寺等、三島郡、新潟市、中蒲原郡、西蒲原郡において神社、佛閣、或るいは各家等次々と建立すること十有余、現存の弥彦神社(当時国幣中社)の大工棟梁としての活躍は、その燦たるもののひとつである。
 大正八年、本敬覚寺建立に続き、新潟市西堀の勝念寺建立を最後として、大正十年 病に倒れ五十才の若さで長逝された。
(長谷川熊平氏 子孫の記録より引用)

境内の紹介

東本願寺御影堂の瓦

 東本願寺(真宗本廟)御影堂の明治期の再建の際、愛知県三河地方のご門徒により寄進され、以来百余年の雨風に耐えて親鸞聖人のまします御影堂を守ってまいりました。両堂の再建、真宗本廟の崇敬護持にかけた多くの念仏者の願いとご苦労が偲ばれます。