- 【戊辰戦争の始まり】
- 1867年(慶応3年)
- 7月
- 会津藩の代官所が酒屋に移された。
- 9月12日
- 新潟会議
- 10月14日
- 徳川慶喜、大政奉還
- 10月15日
- 新政府は十万石以上の大名に上京を命じた。新発田藩は家老の窪田平兵衛が藩主名代として状況。
- 1868年(慶応4年)
- 1月2日
- 鳥羽伏見の戦い 幕府軍敗退。
- 1月4日
- 維新政府軍、討幕の兵を挙げる。
- 2月1日
- 新発田藩領内各組の庄屋に注意を与えている。既に銃隊や力夫を使役しているので、各組でも不急の普請等は取りやめ、経費の節減に努力するよう。
- 2月2日
- 酒屋陣屋で越後諸藩会談。長岡・新発田・高田・村松・与板・桑名・会津の各藩参加。この頃、新発田藩兵200名が、今日との新政府軍参加のため上京。
- 2月9日
- 村々への触れ
- 2月12日
- 蒲原横越組大庄屋よりの廻状出る。北陸道七か国に、勅使高倉三位様、四条太夫様が下向なさる。その勅書が一両日中に新発田城下へ来るそうである。
- 2月22日
- 藩主直正、帰国のため江戸出発。
- 2月27日
- 江戸と本国から藩兵を上京させた。
- 3月4日
- 銃隊に対し、非常に節には格別に使役あることも予想されるので、その士気高揚のため、勤務中は帯刀を許可する。
- 3月5日
- 藩主直正帰国。
- 3月5日
- 北陸道総督府、新潟奉行白石を越後高田の陣営に召す。
- 3月9日
- 新発田藩の勤王に努めるとの誓書を、越中高岡で総督府提出。
- 3月12日
- 北陸道鎮撫軍高田到着。
- 3月14日
- 御用金として拠出を命令することはしないが、富裕な者には進んで献金するよう、庄屋が説得することを命じた。
- 3月15日
- 鎮撫総督高田に到着し、越後諸藩の重臣を招集。藩主の状況、領内の高・戸口の調査、会津討伐を命令。
- 3月16日
- 北陸道鎮撫軍の先鋒総督兼鎮撫使、越後11藩の重臣を招集。新発田藩家老溝口半兵衛出頭。
- 3月25日
- 非常事態の時の対応につき、取り締まり・火の元など入念にするよう、大庄屋を通じ、新発田藩は、再度注意を促した。
- 3月30日
- 旧幕府歩兵隊800名 水原に滞陣、新発田藩に五千両の借用申し入れ。新発田藩 千両献納。
- 4月2日
- 越後を暴れ回った衝鋒隊560入、酒屋に入る。後、高田に向け出発。
- 4月5日
- 白石奉行、田中組頭江戸へ出立。新発田藩、會津藩へ米5000俵3000両、小銃100挺渡す。
- 4月11日
- 徳川慶喜、恭順。
- 4月19日
- 請書提出。
- 5月2日
- 長岡藩河井継之助、官軍と戦うことを決定。
- 5月3日
- 奥羽列藩同盟を結ぶ(仙台)。
- 5月4日
- 長岡藩、同盟に参加し、奥羽越列藩同盟となる。
- 5月6日
- 村上藩・村松藩、列藩同盟に参加する。
- 5月12日
- スネル、新潟に来て、諸藩に武器を売る。
- 5月15日
- 新発田藩、列藩同盟に参加する。
- 5月19日
- 長岡城、落城する。
- 5月21日
- 新発田藩兵200名、新潟警備のため出兵する。
- 5月28日
- 米沢兵200名が鮫錬(あんこう)舟17隻に乗って酒屋へやってくる。
- 6月1日
- 新潟沖に薩摩、長州の軍艦が姿を現わす。この日から米沢藩色部長門が新潟を預かる。
- 6月3日
- 新潟奉行田中廉太郎、米沢経由で江戸へと去る。
- 6月5日
- 米沢藩主、新発田藩主溝ロ直正を下関村まで来るように要請。直正の乗った駕籠は、新発田の城下外れで町民や農民数千人により阻止される。
- 6月9日
- 同盟諸藩、新発田藩に最後通告。
・藩主の父の静山が下関本陣の米沢藩主を訪問すること
・速やかに出兵して長岡方面で交戦中の同盟軍を支援すること
以上のうちどちらか一箇条を受け入れるよう6月9日までに回答すること。
もし、回答なければ、直ちに新発田城を攻撃するとし、米沢・仙台・會津若松・
上ノ山一庄内・村上などの諸藩兵は、新発田城を四方より囲んだ。 - 6月11日
- 新発田藩兵200名が見附に出兵。
- 6月14日
- 酒屋町にある会津藩の包帯所撤退し、会津藩兵は全ていなくなる。
- 7月25日
- 河井継之助、長岡城を奪還する。政府軍、太夫浜に上陸(軍艦2、汽船4、漁船30、兵士1200名)する。
- 7月25日
- 庄内藩重臣石原倉右衛門、政府軍と松ケ崎で遭遇し、斬殺される。新発田藩は、政府軍に帰順する。
- 7月25日
- 新政府軍、太夫浜・松ケ崎浜へ上陸、新発田から諸役人が出迎えに赴く。新政府軍は、夜に入り、新発田城下に到着する。新政府軍(薩摩・徴収・芸州・明石の諸藩)は、8~900人。新発田藩は、各地に兵を出し、荒町・島潟・長畑に台場を構築する。水原方面には、万代・天王・吉浦にも台場構築する。
- 7月26日
- 政府軍、阿賀野川渡河し、新川に上陸する。米沢藩兵千間土堤を敗走する。
- 7月27日
- 政府軍、海陸から新潟を砲撃する。
- 7月28日
- 新潟の同盟軍は、退路確保のため荻島(新津)を占領する。
- 7月28日
- 小阿賀野川の南、荻島新田に同盟軍の米沢藩兵が多数巣結し、渡船場に砲台を構築する。新政府軍の福知山藩と芸州藩が出兵してきて、荻島新田対岸の渡船場に台場を構築し、夕刻から川を挟んで砲戦となる。
- 7月29日
- 新発田藩、藝州、福知山の合同隊、荻島を奪還。同盟軍は(會津)若松や米沢への近道(新淳一五泉一津川一若松)を失う。若松への道は、三条一八十里越えのみとなる。政府軍、信濃川渡河する。米沢藩重臣色部長門、関里村で戦死する。
政府軍、新潟を占領する。長岡城が再度落城し、藩兵とその家族八十里越えから會津に落ちる。 - 8月1日
- 新政府軍は、ひそかに長船で車場新田へ渡り、一斉に発声と発砲したところ、同盟軍は、狼狽して敗走した。
追撃して荻島新田に至り敵兵一人を福知山隊が討ち取り、本陣に送らせた。この日、暁七ツ(午前4時)ころ、亀田町でも激しい砲声を聞いたという。町では、早鐘早貝が鳴り大いに騒擾したという。亀田町からも農兵を出すように連絡があり、六百有余人が二本木白倉氏宅に着いた。
政府軍は、三ツロを渡り敵陣を突いたのである。亀田の農兵は、車場の渡し場からひそかに敵の横合いを撃つように、そして、2発の砲声を聞いたら鯨波の声を上げるよういう指示を受けた。亀田の農兵は、敵を追って北上・川口辺りまで至ったという。
荻島新田屯集の米沢同盟軍は塁を捨てて新津町に退却した。政府軍は、三ツロを福知山、車場口を芸州の二手に分かれて渡河した。その人数は、70人に満たなかった。葛塚からも農民兵300人が横越嶋へ加勢にやってきて、木津圓通寺に屯集した。通琳寺でも葛塚隊350人の内310人に昼食を提供した。この夜はま大雨となり、砲声も止んだ。また、銃隊30人が二本木に出兵した。新政府軍の進行にあたって、心配事に直面したのが桑名藩預所の小杉村である。松ケ崎上陸作戦後、村々では何かと心配していたらしい。 - 8月2日
- そこへ、夜、本所村から横越へ政府軍の通行があるという知らせが、下通りの村々から小杉村小杉村に入った。俵柳の豪農小林政司が、付近の有志百七十八人を集めて組織した勤王義勇農民兵の金革隊により酒屋陣屋焼き払われる。
- 8月8日
- 村上藩降伏。
- 8月11日
- 西郷隆盛、薩摩軍3個小隊をつれて新潟湊到着。
- 8月14日
- 新発田藩兵、會津口赤谷方面で會津藩兵と戦う。 (角石原の戦い)
- 8月21日
- 総督宮(仁和寺宮嘉彰親王)亀田で昼食して後、下町より船に乗船し、新潟へ赴く。
- 8月29日
- 米沢藩降伏。
- 9月9日
- 西郷隆盛、松ケ崎を出発。
- 9月14日
- 西郷隆盛、米沢着。新発田藩兵、會津若松城下へ出動。
- 9月22日
- 會津若松落城。
- 9月24日
- 庄内藩降伏。
- 【戊辰戦争の終結】
参考資料・情報提供 江南区郷土資料館